世田谷新聞掲載 エッセイ集No.14

                         (平成15年09月04日
                   
                [商社マンと機関銃]

             松尾征治

 1979年。親米政権だったパハラヴィー王朝がイラン・イスラム革命で倒された。革命後の混乱もほぼ収まり、社会が落ち着きを取り戻してくると当然のことながら各省庁のトップの首がすげ替えられる。私が革命前から出入りしていたイラン国鉄も例外でなく、81年の春には総裁に位の高いお坊さんの息子が就任した。新総裁はなんと25歳の若さであるという。とにかく新総裁に会わねば話にならないので、面談を申し込んだところ簡単に時間がとれた。総裁秘書によると西側のビジネスマンで新総裁に会うのは私が最初らしい。革命前のプロジェクトはどうなるのか?今後国鉄の組織はどう変わるのか?どこまで新総裁の口から回答が得られるのか不安な気持ちと、かすかな期待を抱いて総裁室に入った。

 しかし、真っ先に目に飛び込んできたのはボデイーガードの姿だ。迷彩服を着た二人の革命防衛隊の隊員が机を前にした総裁を挟むような形で立っていて、その手には機関銃が握られている。しかも、その銃口は二つとも私に向けられているのだ。空港でも街の四つ角でも機関銃で武装した革命防衛隊の隊員が配置されていたので、機関銃そのものは革命後のイランでは珍しいものではなかったが、その銃口を向けられるのは初めてのことであり、初対面の相手の私に何という出迎え方をするのだと正直腹も立ったし会見を申し込んだことを後悔もした。

 聞きたいこと、話したいことは色々あったけれど、私に向けられている銃口がどうしても気にかかり暴発するのではないかと考えると気が気でなく、口の中はカラカラで手は冷や汗でびっしょりだ。このように異様な奮囲気の中で始まった会見だっただけに、自己紹介をした後は新総裁との話も半分上の空で面談を早々に切り上げ総裁室を後にした。帰り際に隣室の総裁秘書が「びっくりしただろう」と言いたげな顔をしていたが、総裁秘書を無視して、黙って外に出て深呼吸した。

 機関銃といえば、後年やはり出張で行ったイランでのことだが、こんな思い出がある。被抑圧者財団(旧パハラヴィー財団が革命後改組されたもの)と長期間にわたり交渉していて、ホテル住まいに退屈しだした頃である。交渉を通じて親しくなっていた財団の担当のお偉らさんから「テヘランでは東京のようにもてなしは出来ないけれど、若し機関銃に興味あるなら気晴らしに機関銃を好きなだけ軍の射撃場で撃ってみないか」との誘いを受けたのだ。「一分間で100発撃てる」らしい。

 アメリカでは私が行く度に私が野球好きであるのを知っていて大リーグのカブスやホワイトソックスの試合に招待してくれる在シカゴのメーカーもあったし、マイアミの海で何百万ドルもする自家用の豪華ボートでクルージングに誘ってくれる客先もいた。それにしてもイランでは機関銃の射撃をしてみないかとの招待である。退屈して時間を持て余しているであろう私を何とか慰めてやろうとのイラン側の気持ちは有難い限りだ。未知の珍しいものへの誘いにはからきし弱く、すぐに乗ってしまうのが私の悪い癖である。こんなことでもなければ本物の機関銃を手に握ることなどまず有り得ないと思ったからだ。しかし、そうは言ってもイラン人のお偉らさんと二人だけで軍の射撃場へ行くのは何といっても不気味でもあり、心もとなくもあった。正直行こうか行くまいか暫く逡巡しているうちに商談の方が急転直下で頓挫してしまい、折角の射撃の機会を結局逸してしまったのではあるが・・・。

 機関銃がらみの二つの思い出をこうして並べてみて言えることは「人間のどもと過ぎれば熱さ忘れる」ということだろうか。国鉄の新総裁に面談時、暴発するのではとの恐れから腹を立てていた私が、暴発するかもしれない同じ機関銃を自分の手に握れるなら撃ってみたいと思うのだから・・・。