世田谷新聞掲載 エッセイ集No.15
(平成15年09月11日)
[理解できるか? ペルシャ語の世界]
松尾征治
東洋のフランス語と言われるペルシャ語は音声的に美しいだけではなく、その表現方法が豊かというか雅やかである。自らの国を「バラとウグイスの国」と呼ぶなどポエムの世界に住むイラン人には相応しい言葉だと思う。赤いバラ(ゴル)が咲き乱れ、ウグイス(ボルボル)の美しいさえずりが聞こえる。そんな空間こそが彼らの夢見る世界なのである。その昔、中央アジアでアラビア文字表記のペルシャ語が国際語となり、宮廷の公用語になっていたのもそれなりの理由があった訳だ。何か綺麗なものに対し、「美しい!」とか「綺麗!」と感嘆でもしようものなら「あなたの目が(汚れなく美しいからそれが)綺麗に見えるのですよ」との言葉が返ってくる。その言葉に対し、「あなたの心が(汚れなく美しいから私の目が)綺麗に見えるのですよ」とこれも優雅な言葉で返すのがペルシャ語の世界である。
更にこんな優雅な表現もある。例えば後ろを向いて何かをしている女性に肩越しに喋りかけたりすると「背を向けたままですみません」と女性の奥ゆかしさが偲ばれる言葉が返ってくる。日本でもアメリカでも残念ながら、このような言葉を聞くことは殆どない。文化の深さというか彼女の育ちの良さを感じる時でもある。「背を向けたままですみません」と言われると「どういたしまして」ではなく、「真珠のように美しいあなたに表(顔)も裏(背)もありましょうか」と答えるのだそうだ。もっとも「真珠のように美しいあなた・・・」といった私にとっては歯の浮くような、そんな台詞を私はイランを離れる最後までどうしても口にできなかったのだが。
とにかく敬語、謙譲語、美辞麗句を連ねた丁寧過ぎる、こんな優雅な言葉のやりとりや、何かと言えば「ハーフェズ(14世紀のイランの大抒情詩人)はこう詩っている」と朗々とハーフェズの詩を口ずさまれようものなら、ゆとりが無く言葉の遊びに慣れていない日本人がついて行くのは難しい。通算すればイランに13年住み、結構イラン化していると思っている私ではあるが、延々と続くこれらの言葉の遊びに、しばしばイライラさせられたものである。歴史も文化も習慣も日本のそれとは大きく異なっており、いつも急いでいるような日本人の歯車の数と彼らの悠々たる歴史の中での歯車の数が初めから違っており、噛み合っているように思って話していても回転のスピードが違うので実際には噛み合っていないが為であろう。
急いでいるような日本人と言えば、ペルシャ語に「急ぐことは悪魔のやること」なる表現があり、何事も急いですることを厳に戒めている。
優雅なペルシャ語の世界に浸り、イランのこの時間感覚を身につけない限りイランを完全に理解できないことは確かなようだ。