世田谷新聞掲載 エッセイ集No.20
(平成16年02月12日)
[翻訳はどこまで可能か?]
松尾征治
イスラム圏で使われているアラビア語の単語を題材にして、外国語を日本語に翻訳するとき、それがどの程度正しく訳出でき、また翻訳したものをどの程度正しく理解できるものか考えてみたい。
最初の単語は「エンシャーアッラー」である。これは「神の御心にかなえば」とか「神の思し召すままに」と日本語に訳されている。「これを明日までにやってくれ」に対し「エンシャーアッラー」といった風に使われるわけだ。「神の御心にかなえば明日までにやりますが、神の御心にかなわなければ明日までにはできません」とは責任逃れの表現もここにきわまれりで「そんな無責任ないい加減な返事をして何だ!」と怒り出してはいけない。この場合「エンシャーアッラー」とは「承知しました。明日までにやるように全力を尽くします。しかし、私がそう思っていても明日までに何が起こるか神のみぞ知ることであり凡人には解らないのがこの世の常ですから」との意味であって、「はい解りました。明日までにします」と何の臆面もなく約束する日本人の方こそ誠意がないとイスラム教徒の彼らは主張する。神の存在を信じず、「エンシャーアッラー」という単語の含蓄を把握しない限り正しく日本語訳を理解できない。
それでは「ザカート」という単語はどうだろう。 預言者マホメットが「神は汝らの財産を清浄なものにするためザカートの義務を定めたもうた」と言ったのがそもそもの由来で、日本語では「喜捨」と訳されている。当初は自発的な施しを意味していたが、サウジ・アラビアなどでは大金持ちに対し救貧税という名の一種の税金となり、義務化されていった。従って、一般大衆には喜捨(ザカート)の義務はないのだが、それでも彼らの社会の中で困っている者を助ける習慣には根強いものがあり、喜捨をする者にとっては喜捨できることが誇りであるし、喜捨させて貰える事を感謝する。逆に施しをして貰った方は喜捨の機会を与えてやった位に解釈してか、ほとんど「ありがとう」といった感謝の言葉が聞かれない。
街中で観察していると、どうみても金を持っていないような連中が小銭を懐から取り出し乞食に恵んでやっている。私など乞食に対しては「気の毒だなあ」との同情の気持ちは少なからず持っているが、わずかな金を与えることにより乞食の自助努力しようという気概すら奪ってしまうのではないかと思い、小銭をやることに抵抗がある。それでも郷に入れば郷に従えで時に乞食に喜捨することがある。しかし乞食は「ありがとう」というどころか「たったこれだけか」といった表情を浮かべることさえある。妻によるとバザールで品物を探している時などに後ろから肩をたたかれ、知人にでもたたかれているのかなと振り返ると、乞食が汚い手をにゅっと突き出し喜捨を迫ってくることがあると言う。こうなると「喜捨っていったい何なんだ?」となってしまうのだが、こんな疑問を感じること自体もう既に喜捨する資格がないのかも知れない。
言語についての知識や能力がいくらあっても、その言語が使用されている空間の環境、文化、宗教的背景など正しく理解できなければ、正しく翻訳もできないし、また翻訳を正しく解釈できない。